vol.11合評

 

電話ボックス(絵と短歌) ヤンコロガシ

電話ボックスって、夜道の中見ると怖いんですよね。ぼうっと光っていて、それでも今は使っている人はほとんどいなくて。国道にも確かに電話ボックスってありますよね。誰が使っているんだろう……と思いながらいつも通り過ぎているのですが……。きっと、車中で事故が起こったり、交通事故に合ったひとが、携帯電話の代わりに使っていたのでしょう。ものすごい怨念が「影」になって染みつく。いやあ、怖い。この作品で一番好きな個所は「いつまでも」です。この「いつまでも」がつくことによって、イメージの反復、というか、恐怖が頭の中で反復されていく感じがしてとても好きです。イラストでは、ヤンコロガシさんのキャラクターの「想い」が白い影になって立ち上り、電話ボックスに覆いかぶさっています。そして、電話ボックスの中には影がいて、きっと誰かに電話しようとしているんでしょう。今にもダイヤルボタンを押そうとしています。でも実体として存在するキャラクターは電話ボックスの外にいます。「影」は私たちのすぐそばにあるあやかしだと思っています。自分自身を投影出来て、なおかつ身近な異界として存在しているのかもしれません。(長尾)

 

八百の睦 黒間よん

半人半魚であるという八百重をめぐる、ある青年と彼の父親代わりの祖父のお話。美しいながら退廃的な雰囲気の世界観が文体からひしひし感じられます。しかもただ美しいだけでなく、その中に艶やかさ生々しさもあり、それが正義青年の鬱屈した思いがよく表れているのではないか思います。

作中、「男とか女じゃなくて、自分を男にしてくれる人が好きなんだと思います」と正義青年がバッサリ切られるシーンがあるのですが、このセリフがまた絶妙だと思いました。この「男」の意味を考えると、偉大な祖父への承認欲求みたいなものがチラチラ見え隠れしているような気がして、正義青年が八百重さんに向けていた感情はきっと愛だけではなかったんだろうなあと思わずにいられないです。お祖父さんの勝ち逃げみたいな形になりますし。父親へのコンプレックスみたいな目で見てしまうとまた業が深い。世間でいうファザコンともエディプスコンプレックスとも違うような気がして、どなたかこの関係性を表す良い言葉をご存知でしたらぜひ教えてください。

そしてタイトルがとても良いと思いました。個人的に一番好きな場面が祖父が亡くなったあと、正義さんが八百重さんに名前の意味を訊ねるシーンなのですが、締めの二行にとても上手いこと掛かっていて読み終わった時の満足感もひとしおでした。正義青年にとって八百重さんはあまりにも遠かった、でも実は八百重さんという点と繋がれる「距離」という概念に至れたのは祖父さんだけで、青年は数あるうちの一人、辺縁の点にしかなれなかったのかなあと考えてしまいまた業が深い…。(横井)

 

ぽんぽこ山に登る 横井

ぽんぽこ山にゃ狸が出るぞ。それもただの狸じゃない。とっても強い化け狸だ――

という一文から始まる通り、「ぽんぽこ山」と化け狸の言い伝えが残る「手ノ町」を舞台にした、ふたりの男子高校生のお話です。愛らしい狸の形をとったあやかしを愛し、奉り、時にちょっぴりの恐れを込めて接してきたこの町のおおらかな雰囲気が全体的に満ちています。しかし時折主人公・三好国春くんが感じる受験間際の教室に漂うあのトゲッとした雰囲気や、あやかしの元へ迷い込んでしまった小さな焦燥感などがスパイスのように効いていて読み応えのあるお話でした。タイトルと引っ掛け、サブテーマ的に挿入されている『鸛鵲楼に登る』もまた良い存在感で、ちょっぴり高校生気分で辞書片手に古典の教科書をもう一度開いてみるのも良いかもしれないな、と思ってしまいます。(黒間)

 

妖狐千年側仕え 宙井美弥

 和風な世界観というよりは、現代がベースになっているので読み進めやすかったです。蛍が現代に馴染んでいるあたりも、妖特有のおどろおどろしさがなく作品全体が可愛らしい雰囲気になっていると感じました。妖狐の残虐性や独占欲が彼の飄々とした態度から垣間見えるなど、妖としての蛍と青年としての蛍の二面性が描かれていて、獣耳の見た目だけでなく「あやかし」らしさが感じられる作品でした。(涼風)

 

一反木綿を洗いたい 涼風弦音

生意気な口を聞いたかと思えばしおらしくもなり、低くものを言っているかと思えば妙に上から目線だったり、一反木綿の絹次郎くんが非常に愛らしく魅力的です。反物として高いプライドを持っているくせに何処か人間臭くて世慣れしている絹次郎くんと主人公の女の子の掛け合いが軽妙でユーモラスで、ほっこりしました。

イケモメンというネーミングには「そうきたか!」と一本取られました。今後も色々な反物たちとの絡みが見てみたいです。(宙井)

 

艶色錦鬼模様 錦織

テーマというか扱ってるジャンルが特殊なので手を伸ばしにくいですが、内容としても面白いし、キャラの魅力もあるし、文章力もあると思います。

喜一郎が彫童子を迎えにいく始まりは、読んでいてわくわくしました。これから物語が始まる、という準備のシーンを上手く書いてると思います。個人的に序盤は思わせぶりであったほうが良いと思っているので読んでいて飽きがなかったです。

また、全体的に非常に丁寧に書いてる印象を受けました。世界設定、メインの舞台、そこに生きる人、文化などなど。どういう人がどういう世界で生きていて、これから主要人物は何をするのか、というのがしっかりと説明できてるなぁと。

難しい言葉というか、漢字が多いですが、変にハナにかかってない。錦織さんの文章なのかなぁ、と思います。

また、物語の運びも凄く良く出来てると思います。導入部分、説明部分、癒し部分(?)、謎解き部分、山場に向けて。と、読む手が止まる隙がありませんでした。更に、交戦シーンも迫力があって良かったかな、と思います。個人的には台詞が一々格好良くて良いなと。

一つの作品として、完成度が高いと思います。

ただ一つ言うなら、喜一郎が……う、薄い……。

感情移入する先を喜一郎のつもりで読んでいたので。治郎屋と彫童子の関係はとても素敵で、この二人は私も好きなのですが、そうすると喜一郎は何だったんだ?!

という……。まぁ喜一郎がいないとそもそもの話がないわけですが。先輩の恋愛事を遠くから眺めてる後輩のような。

とはいえ、読む手が止まった訳ではないですし、素直に面白かったです。何というか、治郎屋一家のこぼれ話を読んだような。というわけで、続いてくれると嬉しいです。喜一郎君の成長話、期待しています!(灰音)

 

百鬼朝行 長尾早苗

現代社会を鋭い視点で捉え、百鬼夜行とかけてより色濃く描かれている。もし身の回りの人たちが人でなかったら。また、そんな群れに属している自分がもう既に人の心を失っていたら。そんな感情に身震いしてしまうような作品です。(ヤンコロガシ)

 

コンキチ 灰音ハル

永遠・不変そして約束事という概念の儚さを感じる作品でした。我欲といいますか、自分たちの利益のために当然のように他の生き物に犠牲を強いる人間の醜さを改めて思い知らされました。「僕を『化物』と呼ぶのなら、人は一体何なのだろう。僕からしたら、人のほうがよっぽど『化物』に相応しい」という台詞はコンチキが狐だからこそ抱くことのできる思想、「僕のほうがよっぽど、人が大嫌いだぜ」と言えてしまうのは龍が人間であるが故にコンチキよりも多く人間と接しているからこそ持ってしまう嫌悪なのだと感じました。自ら人であることを捨ててしまえる龍の方が確かによっぽど人間が嫌いなのだろうと思います。疫病や天災など、誰のせいでもないものを誰かのせいにして物事を治めることは、人間の心の弱さの象徴的な行為であると考えさせられます。好奇心旺盛でフットワークの軽い青年(?)であるコンチキですが、何かを失ったもの独特の寂しさや喪失感も持ち合わせていて非常に魅力的なキャラクターだと思います。個人的に龍がとても好みです…。まだ子供でありながら達観していて人間を客観的に見ている感じが、狐であるコンチキの相棒の役割をはたしていて、とても良いバディだと思います。(錦織)

 

もういいよ 浅井

 謎が残ったままだけれど、それがそのまま余韻になっているような作品でした。佐伯が何者だったのか、何故『ユウくん』の八歳の誕生日に姿を消してしまったのか。何かが起こりそうで、でも何も起こらなくて、それでも思い返してみると何かが確かに起こったような気がする夏の日。久しぶりに祖母の家に行ってみたいな、と思わせるような、どこまでも優しくてノスタルジックな情景が素敵です。

 佐伯に関する謎については、わからないままの方がきっと良いのでしょう。佐伯は社神だったかもしれないし、狐だったかもしれない。もっと他の存在かもしれない。ただ『あやかし』と呼ばれるものは、はっきり説明の付けられる存在ばかりではないはずで、彼ら自身、自分が何者なのかわかっていないことも多いのではないでしょうか。

ただぼんやりとそこに『居る』存在に、気付くことができるかどうか。気付いたところで、受け入れられるかどうか。それが可能なのは、例え説明の付けられない出来事に直面しても、そういうこともあるかもなあと素直に認めてしまえる子供だけなのでしょう。

『居る』だけの彼らは、実際はとても脆くて儚いけれど、それでも誰かの記憶には残り続けようとしています。けれど、友人との別れの物語、というわけでもなくて、案外佐伯は自分で言ったように放浪の旅に出ているだけかもしれません。彼が持っていた『銀河鉄道の切符』が本物だったとしたら、やはりもうユウくんとは会えないのかもしれませんが。

『かもしれない』ばかり言っておりますが、佐伯に関しては色々と想像が膨らんでしまいます。ユウくんとの別れを悲観しているわけでもなく、帰らなかった彼を恨むわけでもなく、思い出してくれたことを無邪気に喜んでいる辺り、やはり人間の俗っぽい感情とは一線を画す存在のように思えます。

「もういいよ」には、どんな思いが込められていたのでしょう。

もう一緒に遊べないけど、それでいいんだよ、なのか。

もう忘れてしまってもいいよ、なのか。

長い間かくれんぼを続けていた形だったけれど、いつでも会えるようになったからこそ、「もう(いつ探しに来てくれても)いいよ」、なのか。神社が無くなったことで佐伯が居場所を失ったのではなく、自由になったのだとすれば、こういう解釈も有りな気がします。

第三者は推測するしかありませんが、ユウくんにはちゃんと伝わっていたようなので、それだけでも何か良かったなと思いました。(暁)

 

青きイノセントワールドの証明 花森美咲

 思春期という自意識を持て余しがちな時期の葛藤と成長が、若さとしての「青さ」と青春の「青さ」として溶けこんでいる。 登場人物たちは俯瞰して見れば皆一様に子供であるが、彼らの学校という世界の中ではお互いに差異をあぶり出して傷つけたり、愛を見つけたりする。「それなりに生きてやろう」とする主人公が、後半で「彼女」の為に感情をむき出しにして、コントロール不能な疾走感を伴って結末に向かうのが爽快だった。

 また、表題にある「イノセント」とは、互いに傷つけあってしまう少年少女たちも実は無垢で無知である、というアイロニーでもあり、だがしかし「青春」という大きな括りに変換すると、傷つけ合う「イノセント」すら輝きに昇華させる力を持ち、その存在証明としての愛なのだろうと思う。(上嶋)

 

スカイフィッシュ~を捕まえる 上嶋千紘

母校には茶道の基礎を学ぶカリキュラムがありました。特に茶道に興味があったわけではないけれど、単純に"苦い"と言い切れない不思議な味をした仄かに優しく香る抹茶と甘く可愛らしい和菓子がたまらなく好きで、抹茶と和菓子食べたさに茶道部に忍び込むという愚行を卒業まで繰り返していました。 

「スカイフィッシュを捕まえる」を読んで、ふとそんなことを思い出しました。今ではいい思い出、青春の一ページです。 

ところで、スカイフィッシュというのはUMAの一種で、近年ではその正体について科学的に証明されているようです。UMA、未確認生物、存在するのかしないのかがわからない、生命体。 

あの頃、確かに私は青春の中で生きていた、息をしていた、はずなのに。制服を脱いだ瞬間から、長い長い魔法が解けてしまったかのように、青春は何処か知らない遠い場所、薄いピンクと水色の混じった霧の向こうに隠れてしまいました。 

存在するのかしないのか、はっきりと姿形を掴むことが出来ない。そういう点では青春も、もしかしたらUMAの一種なのかもしれませんね(無理矢理かな?)。 

春野と望月先輩は、とうとうスカイフィッシュを捕まえることは出来ませんでした。 

けれど、スカイフィッシュを追ううちに「誰かを愛しく思う」という感情を見つけました。宇宙と繋がる茶室の中で互いを思ううちに「愛しさ」で互いが繋がることが出来ました。 

青春に正解はありません、"不思議"にも正解はありません、茶道にも正解はありません。 

だけど辿り着いた先に指先に優しく、けれと確かに触れたものがあったのなら。きっとそれが、その人達の、望月先輩と春野の答えなのでしょうね。 

「Ask, and it shall be given you. 

Knock, and it shall be opened unto you. 

Seek, and ye shall find.」 

(花森)

 

アクアマリン 月城まりあ

満天の夜空と鳴り響く鐘の音に見守られながら、変わり者の少女との出会いと友情を通して、世界の外側に憧れる少女が、自分らしく成長していく、少し切なくも美しい青春物語でした。

誰よりも自由で自分らしく生きていける瑠未への憧れ、周囲に馴染 んで生きている自分への嫌悪感など、主人公である麻由の揺れ動く心の様子が、柔らかく穏やかに、けれど真摯に描き出されていると思います。そのため、思春期の少女の繊細な心情がよくわかりましたし、読んでいて深く共感でき、書き手として大いに感心すると同時に、読み手として大変興味深く、楽しい作品だと感じました。

また題名でもあるアクアマリンのブレスレットに、港町の海と空といい、美しい青色を読んでいて連想することがとても多かったと思います。個人的に読んでいて色彩を伴う情景がパッと頭に浮かんでくる作品に外れはないというジンクスがあるのですが、この月城さんの『アクアマリン』も読み始めて、無数の星を散りばめた夜空と青い海を眺める少女という光景が思い浮かび、ど んどん作品の中に引き込まれていきました。きっと読めば誰もが麻由と瑠未の思いと、空と海が輝く美しい光景に魅了されるであろう素敵な作品です。(藤沢)

 

あの日を偲ぶ 藤沢静雄

小物の使い方やセリフ回しが海外の連ドラや洋画を彷彿とさせ、映像で捉えやすい作品だと思いました。

エドワードがずっと親友として側に居てほしいと願っていたことをキースもしっかり覚えていたこと。自分でも馬鹿だと思っているのに、どんどん会い辛くなってしまったこと。その現状から動くきっかけにエドワードの結婚という出来事が使われるところが非常に自然で、世界に入りやすく感じました。

単なる過去話ではなく、ラストの現在にうまく繋がっていて、読後感もとてもよかったです。(月城)

 

終末の箱庭 暁壊

 テーマが「学園・青春」となれば、爽やかでちょっと切なくて、ほろ苦くも甘いような……そんな安直なイメージを抱きます。

 今回は、いつも独特の世界観でピリッと皮肉のきいた物語を書かれる暁壊さんの「学園・青春」ときいて、どんなものが飛び出してくるのだろうとドキドキしておりました。

青春や学園といえば、「未来」の存在を想起させるものではないか、と個人的に思っていたのですが、この作品のタイトルは「終末」。それに相応しく、現代人(この作品の言葉で言うなら「旧人類」)の我々にとっては「終末」という他ないような世界観の物語が繰り広げられていました。

 突如として蔓延したゾンビウイルスによって「旧人類」はゾンビ化し、ウイルスへの抗体を体内にもったミュータントたちだけが「新人類」として生存している世界で、生き残る代償のように、「新人類」たちは歪なかたちをしている。それでも、登場するミュータントの少女たちは学校へ通い、おしゃべりをしたり恋をしたり、笑ったり落ち込んだりする、ごく普通の高校生のように。けれど、身に纏うのは誰のものかもわからない制服であったり私服であったり、そもそも学校自体が形ばかり。

 その姿も学校生活も異形のものでありながら、本当に、彼女たちは青春期の少年少女そのものなのだな、と読んでいて感じました。恋も友情も、愚かさも、身勝手さも、大人になる過程の子どもたちが持ちうるものが、長くない物語の中でも余すことなく描かれていて、いつもながら流石だなあと思います。

「旧人類」の赤ん坊をめぐる事件までもを含めて、裏も表も、まさしく「青春」物語だったのだなあという感想です。ミュータントの少女、ミホが、兄である圭介に「探偵ごっこは終わりだ」と言われたときに、ミホの〝母親ごっこ〟も終わったのかな、などと思ったりしていました。

 いろいろな想像、読み方ができて、とても読み応えがありました。タイトルの「箱庭」という言葉にも、どれだけの意味が込められているのか、考えただけで楽しくなります。(浅井)